2021/12/30

Factfulness ー現代を生きる全員に必要な考え方ー

以前感想を書いた “Search Inside Yourself ー仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法ー” と同じタイミングで読み始めたものの,猛烈な多忙のため読み終えるのに時間がかかった以下の一冊,

“FACTFULNESS ー10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣ー”

を読了.

読み終えるまでに時間がかかったものの,内容的には非常に興味深く,僕のような研究や教育を生業としている人間はもちろんのこと,多くの人に是非一度読んでもらい,自分を顧みることで感じること,気がつくこと,学べることが多くある本だと感じました.

この本で強調しているのは,人間がそもそも備えている“本能”によって,真実を誤って捉えてしまったり,その誤った情報をもとに,結果として不適切に振る舞ってしまうような過ちを,データを正しく見ることで防ぎ,問題の本質を知ることで解決していくことができる,ということです.具体的には
  • 分断本能
  • ネガティブ本能
  • 直線本能
  • 恐怖本能
  • 過大視本能
  • パターン化本能
  • 宿命本能
  • 単純化本能
  • 犯人捜し本能
  • 焦り本能
という本能の働きを抑え(本能に影響されていることを自覚し),データ(事実)に基づいた冷静な判断をすることが大事だよ,という話が実例に基づき記述されています.
面白いのが,これを読者に気づかせるため“チンパンジーテスト”と呼ばれる問題が用意されていて,確かになるほどこれらの問題を高い正答率で解くのは難しいかも,と思わせる13問です.

この本で言いたいことは非常によく理解できて,身近な and/or 世界の問題を解決する際や,前提として現状把握を行う際,こういった本能を排除した冷静でフェアな捉え方をしないと,場合によってはむしろ問題を改悪するような判断をしてしまう可能性がある,というのが全般を貫くテーマとなっています.が,個人的にはどうしてもそういった問題のある状況を自分の仕事と関連づけてしまう癖がありまして(苦笑),研究を進める際の方針の決め方や進捗確認,得られたデータの捉え方や考察の仕方,結論のまとめ方といったあらゆる研究活動の全てにおいて,この”FACTFULNESS”は非常に重要なバックグラウンドとなり得るということに気づきました.

その昔読んだ本に「データはウソをつく ー科学的な社会調査の方法ー」というのがあったのですが,最初に思い出したのはコレです.実はマスコミ(テレビや新聞雑誌)が少なからぬ頻度で使う方法だったりするので,皆さんも是非読んでみてもらえればと思うのですが,(実験自体はフェアな方法で行なっていたとしても)データの扱い方や見せ方によって,いくらでも人を騙す(勘違いさせる)ような見せ方ができてしまう,というのがテーマです.一方で,そういった“騙し方”を知っていれば,怪しい情報に騙されることはないし,どんな情報に対しても公平で冷静な判断を下せるよね,という話にもなります.
例えば学生さんが実施した実験の結果を見る際,自身にそういった“騙す意図“がなかったとしても,スキルや経験の不足によってデータの見方や見せ方に問題や,許容範囲を超えた偏りがある場合があります.それは説明の不足に起因していたり,必要なデータの不足に起因していたり,見やすさを意識しすぎるあまり重要な情報が抜け落ちてしまったりと様々ですが,例えばこういった不慮の問題に対して,指導している我々までが「騙されて」しまっては研究そのものに重大な問題が生じる可能性があります.

今回読んだFACTFULNESSでは,そういったスキル的なもの以前に,情報を確認する際の心構えや準備として,人間が大昔から生存本能的に,もしくは歴史的に平和に生きていくうちに獲得した本能が邪魔をしないように心がけないと,情報・データを眺めたその時点で誤った捉え方をしてしまう可能性があることへの警鐘を鳴らしています.若干,スキル的な記述もあるものの,心構えや準備に関する記述が多いため,よくも悪くも統計や確率といった専門的な用語はほぼ出てくることなく,とはいえ非常に重要な姿勢について示しているという意味で,学生の皆さんにも是非読むことをお勧めしたい本ですね(また,この本を読んで騙し方(笑)に興味を持った人は,上に紹介した本や,「統計はウソをつく」的なタイトルの本が複数出版されていますので,そっち方面の書籍に手を出してみても良いかと思います).
冒頭にも記載した通り,多くの実例が紹介されていること,またそれに加えて“著者の失敗例“がふんだんに記述されていることも,問題の重要性をより身近に感じさせる意味で効果的だと思います.

実際のところ,大怪我をしない,死なない程度の失敗を,可能な限り若いうちに,可能な限りたくさん経験しておくことほど将来的に役立つことはないと自分自身痛感しているので(実際,そういった経験を経て,人の痛みがわかったり自分自身”多少の修羅場に遭遇しても我を忘れずに”冷静な判断ができている自覚があります),そういった経験談が盛り込まれていることで内容の説得力が増しているように思います.

マインドフルネスの本もそうでしたが,こちらのFACTFULNESSも結構なボリュームでしたので,一気に読むことが難しい人にとっては少々推薦を躊躇します。とはいえ各事例(各本能)は原則独立していて,章単位で読んでも不具合はないと思いますし,何よりこの年末年始にかけて読書に時間を割ける人は,手に取る価値のある本かと思いました.

2021/12/11

2021冬の読書週間 ー研究者に興味のある人へー

ちょっと返却締切が過ぎてしまった子供達の借りた本を図書館に返しつつ,事もあろうに(!?)自分が読む本を代わりに借りてきました(先のエントリでも書いたと思いますが,現在読んでいる本も数冊ほど“現在進行中”です).

今回借りた本は,どちらかというと新たな知識を得るため,というよりは“答え合わせ”のため,および,もしかすると将来的にアカデミックな世界(研究者や大学・高専の教員)を目指したいと考える学生がいたときに紹介できる良い本を探す,といった目的のものなので,借りた側からどんどん読み進めて「確かにそうだよね」と思う部分を確認しながら読んでいます.

具体的な書籍名は以下の通り(他にも借りていますが,今回紹介するのはこの一冊)

ヒラノ教授の論文必勝法 今野浩 著 中公新書ラクレ

この“ヒラノ教授シリーズ”は,研究者(の卵&ヒナ)にとってはかなり有名なシリーズなのですが,僕が手に取って読み始めたのは研究者になってからかなり後で,「すべて僕に任せてください ー東工大モーレツ天才助教授の悲劇ー」という,実話に基づく物語を読んだところからスタートしています.

著者の今野先生は多数の学術論文が学術誌に掲載されているだけでなく,上のような“一般の人向け“の書籍も数多く執筆していて,特に有名なのがこの,ヒラノ教授シリーズです.

おそらく,ここを見ている(主に(東京)高専,本科の学生と思われる)皆さんにとって,論文とは未知のものだと思われますが,ごく簡単に説明すると

主に自身(の含まれる研究グループ)の研究成果を発表するための出版物

で,

一般的に査読(さどく)と呼ばれる審査をクリアすることによって出版される

ものを指します.上記の査読がない論文を「査読なし論文」として「査読あり(査読付)論文」と区別する場合がありますが,ぶっちゃけ査読なし論文は(特に工学系の)研究者にとっては研究業績になりません.
“研究業績にならない”ということは何を意味しているのか,というと,猛烈にぶっちゃけると,たくさん書いたところで出世(昇任)には影響しないということです.

今回紹介している「論文必勝法」ですが,いわゆる論文を書くための文章表現技術だったり章・節の構成などに関する詳細な説明はむしろ記載されておらず,論文を書くために必要な環境や心構え,研究を進めるために必要なお金の獲得の仕方といった,より”戦略的な”話題にフォーカスしているのが面白いですね.加えて,そういった戦略的なお話が,著者の今野先生やその同僚の実体験として紹介されていることが,ここの話題をよりリアリティを持って伝えるのに貢献している.

そろそろ8割くらい読み終えたような状況ですが(恐らく今日中に読み終わる),個人的に非常に共感したのは

「研究という営みには、誰にも邪魔をされない”まとまった”時間が必要である。日本の大学で、このような時間に恵まれるのは、学生時代と、思いやりがある教授の助手(現・助教)として過ごす数年間だけである」

という一節と、効果的に研究を進める(&論文を継続的に執筆する)ためのノウハウとして紹介された

「既に掘りつくされた鉱山で落穂拾いをせずに、積極的に新しい分野に参入して、創業者利益を手に入れること。その際すべてを自分だけでやろうとせずに、学生や同僚を巻き込むこと」

という一節です.

僕の場合,大学生・院生の時代と大学の助手・助教時代の間にポスドク(非常勤研究員)の時代もあり,これらがまさに研究に専念できるまとまった時間だったと思いますが,まさに(冗談やお世辞抜きで)大学教員になった際の最初のボスは,「是非ご自身の研究に時間を使ってください」と仰られたので,非常にありがたかったとともに,ここまで言われて成果が出なければそれは完全に自分の責任だな,と身が引き締まったことを思い出します.

また,研究分野を徐々にシフトしていくというノウハウは実際に行なっていて,基盤となる概念は”学習&適応”というキーワードで串刺ししているものの,それをベースにしつつ,”人工生命””マルチエージェント””確率モデル””教育工学””介護予防””フードロス&食育”といった分野にピボットを移しながら研究を進めています.また,東京高専の学生ならご存知の通り(!?),僕自身はアホほど忙しいことがほぼ日常と化しているので,多くの優秀な学生さんや共同研究者の先生からサポートしてもらいながら,彼ら彼女らと共著の形で論文を発表しているという状況です.

残り2,3割ほどまだ読み終えていないのですが,少なくともここまでの”答え合わせ”は個人的にはほぼ全問正解かと思っていて,残りも今日のうちに答え合わせを終えたいなと考えています.

冒頭で,アカデミックな世界に興味がある or 研究者になりたい学生におすすめしたい本を,と書きましたが,いわゆる論文単体をきっちりと仕上げるためのスキルに関する書籍は,今回紹介する本ではなく,文章表現や英文表現に関する別な本がまた色々とあります.今回紹介した論文必勝法は,より大局的,戦略的な意味で,どうやって研究者としてやっていくか,どうやってバリバリと研究が進められて,安定的継続的に論文を執筆できるか,といったノウハウが詰まっているという意味で,是非読んでみることをおすすめしたい本ですね.

質か量か,だけではない,の続き

 先ほどアップした文章,少し補足があったので追記します.

先ほどのエントリでは,現在読んでいる本の中で,日本の高等教育は(特に文章の読み書きについて)”広く浅い=十分な時間をかけてトレーニングできていない”こと,それには構造的環境的な状況が原因として挙げられること.そして,個人的にはその状況は好ましくないと思っているけれど,それこそ僕の周辺の状況を鑑みても,やはり簡単に改善することは難しいと思っていること,までを書きました.

が,ここで終わってしまうと,”いやぁ困ったね.でもしょうがないよね”という,身も蓋もない結論で終わってしまうなぁ(苦笑),と自分で読み返して気づいてしまったので,じゃぁ解決策はあるの?という話を少しだけ書き足していきます.
先ほどの文章では,僕の個人的な経験として,個人レベルであれば”自身の創意工夫と努力で”いくらでもインプット/アウトプットの力は鍛えられるという話をしました.これは,全く同じ方法ではなくとも,それぞれに合った方法で同じような(or それ以上の)効果を出す方法があると思います.
一方,いわゆる構造的環境的な問題を根本的に解決する方法があるか,といえば,これは少なくとも僕個人の能力影響力の範疇を超えてしまうので,今回は枠組を”現在の東京高専における僕の周囲”という,僕の能力影響力の及ぶ範囲に限定して考えてみました.

その場合,実際にインプット/アウトプットの能力を鍛える場はあって,それは卒業研究や特別研究に関連する作業に相当します.
ただし,この作業において先に引用したような「多くの文献を読んで,それに関する分析や自身の意見を大量に書く」ような課題と同じことをやることはかなり難しく,また,そもそも論として僕のところにきた学生全員に同様の作業を課したら,前のエントリに記載したのと同様、学生は倒れるし僕も倒れる可能性が非常に高いです(苦笑).
少なくとも現在の状況において,このような質・量双方が伴うトレーニングを行うには,指導する側もされる側もそれなりの”覚悟”が必要です.やったら絶対に効果が出ることはわかっているものの,一方で絶対に”猛烈に大変であることもわかって”います.加えてその効果ですが,僕の研究分野である強化学習よろしく,”報酬は遅れてやってくる(=即効的な効果が期待できるかどうかはわからない)”のが悩ましいところです.少なくとも自分の能力向上を自覚できる状況となるのに,遅い人は数ヶ月から1、2年かかるかもしれません(要は,トレーニングしている当初はただただ大変なだけ・・・).が,何ヶ月か何年か経って,同様の課題に向かった際,当時の経験が強力に生きてくるという状況に遭遇して「あ,自分は成長できている」という実感ができる,とでもいうのか.

トレーニングの題材は,自分の研究内容と,その関連研究です.卒研や特研では当然,そのバックグラウンドとなる参考文献も調査する必要がありますし,中間発表や最終発表,学会発表で論文原稿を書く機会もあります.最後には卒論や特研論文をまとめる必要もあります.変な言い方になりますが,”最も成長できるコース”を選ぶ覚悟を決めた学生は,いくらでもハードなトレーニングを積めますし,それを望まない学生に無理やりそのようなトレーニングをしても誰も幸せになりませんので,その場合には”卒業できるコース””ちょっと良い卒論が書けるコース”などもご用意しています.

では,幸か不幸か(!?)ある年の学生さん全員が最も成長できるコースを選んだ場合,上に書いたように学生も教員も共倒れになるか,と改めて想像してみましたが,恐らくそうはならないだろうという予想が過去の記憶を伴って浮かんできました.
大体そういった”意識の高い”(念の為申し上げておきますが,この場合最後に「系」の字はつきません)学生が集まった場合,学生さん同士でも切磋琢磨する環境が生まれ,教員は”押さえるべきところさえ押さえて”おけば,学生さんが自分達でどんどん成長していく,というシチュエーションが生まれる,という経験を遠い昔にしたことがありました.そのような環境はなかなかお目にかかれるものではありませんが,学生のモチベーションが高いとこちらとしても非常に喜ばしく,ポジティブな刺激を受けますので,学生-教員間でも前向きなフィードバックループが回るようになります.

ただし,これはこれで理想的な状況ではあるものの,繰り返しになりますがトレーニング自体は非常に大変なものですから,途中で路線変更する学生や,最初から”卒業できるコース”を選ぶ学生もいますし,それが悪いとも全く思いません(むしろ,無理をして結果として卒業できなくなってしまっては元も子もありません).

一番大事なことは,(少なくとも僕に関しては,最低限のルールや仁義を守り,やるべきことをやってくれるという前提条件さえ満たしてくれれば)それぞれの学生さんとの相談のもとで,それぞれの状況に合った方向で,それぞれの目的に合ったゴール設定をすることだと思っています.そのためには,むしろ勉強に関するインプット/アウトプットの量以前に,”相互のコミュニケーションがちゃんと取れるか/取れているか”の方が圧倒的に重要で合ったりします.

上記,あくまで自分のごく周囲のみについての考えですから,根本的な解決にはなっていないのは明白ですが,少なくとも僕の研究分野に興味を持って(状況によって,必ずしも興味はないのに)研究室に来てくれた学生さんが,少なくとも何か”成長できたと実感できる”もの・ことを身につけた上で卒業できればいいな,と思っています.
繰り返しになりますが,何につけても最も重要な必要条件は,頻繁なコミュニケーションです.

2021/12/10

質か量か,だけではない

11月の基調講演も無事,とは言い切れないものの終わり,定期試験も一段落して,ここ1週間くらいはやっと少しだけ時間の余裕ができてきました(体力的にはまだまだギリギリですが).

そうなると最近,やりたいなと思うのは運動と読書.

運動はここ半年くらいのウェイトコントロールの一環で継続しているものの,時間がないとできないウォーキングも先週今週はできました.読書については以前,読みかけと書いていたマインドフルネスの本は読了(とはいえ,実践するにはもう少し修行が必要な模様).Factfulnessは読み終えていないのですが,そんな状況で新しい本も読み始めています.タイトルは”教育論の新常識”(松岡亮二 編著)という新書で,学生の皆さんにとっては興味がないかもしれませんが,実際のところ自分達が受けている教育の現在に関する話題なので,「自分が受けたい教育ってどんなもの?」と考えながら読んでみても面白いのではないかと思います.

で,実際読んでみると面白くて,新書にしてはかなり分厚い部類なんですが,既に半分以上は読み終わっている状態.タイトルに新常識とある通り,昨今話題になっている教育格差や,まさに現在進行形である”コロナ禍での教育”についても記述があり,内容的にタイムリーな部分もたくさんあるのですが,個人的に非常に興味深かったのが”大学教育”をフォーカスした

「広く浅い」学びから脱却せよ

というセクションです.
両方で教員をした経験のある僕の個人的な感覚として,大学よりは専門(実践)よりではあるものの,高専教育も大学教育と類似した点が多いと感じていますが,学生の皆さんにとって,高専(や大学)の教育は広く浅いと思いますか?僕自身は,確かにその通り,と思っています.例えば(工業)高専の場合,中学から入学した時点でかなり専門的な内容に特化した勉強をしますので,そういった意味では”狭い・深い”ようにも思えますが,ここでの比較対象は国内ではなく海外(特にこの本の中では欧米)の大学で,特に読み書きの面において

多くの課題文献を読みこなし,そこで得られた知識をもとに,かなり長い論文(A4版で10枚前後)を毎週書くような課題のもとで,argument(根拠を示した上での自分なりの分析やその結果に基づく自分の考えの表明)を行う教育

と比較して,日本の大学(および恐らく高専)は学生にかける負荷が少ないですよね,といった記述があります.そもそも日本の高等教育機関はセクションタイトルの通り「広く浅い」教育を行って(著者の考える「日本がそういった教育をしている理由」は書籍本体を参照のこと)いて,欧米型の,上に記載したような教育を行うには様々なハードルがあると書かれています.

そもそも論として,広く浅いこと自体が日本の高等教育の問題だ,とまでは書かれていないものの,タイトルをみてもわかる通り,著者は暗にこの状況は好ましくないと考えているわけで,この点については僕も同感です.読解力および聴解力(聞いて理解する力)は学習の基盤であり,これらについては繰り返し,長時間かつ大量な”練習”を行うことでしか身に付かないと思いますし,練習の中で良いお手本をたくさんインプットすることでしか,自らが良い文章を書くスキルを身につけることができないのではないかと,僕は考えています(当然,何もしなくても理解力があり,良い文章を書ける人もいるのかもしれませんが,逆に,そういった能力が当初乏しい人であっても,訓練によって一定の,十分なレベルに到達できると思います).

広く浅い教育には広く浅い教育のメリットがあって,それにより向上する能力もあるでしょうが,それはそれとして,全ての基盤となるインプット/アウトプット能力は,圧倒的な分量のトレーニングを介さないと身に付かず,欧米ではそういったトレーニングが行われているものの日本の多くの高等教育機関ではその実現が(様々な理由で)難しい,というのがこのセクションの主な内容です.

個人的に思うところとして,インプット/アウトプット能力に関しては,質の良いトレーニングであれば量が少なくとも成果が出る,という類のものではなく,まず大前提として”量が大事”であり,”量が質を作る”と言えるのではないかと考えているものの,例えば僕の周辺の環境を見てみると,

  • カリキュラム的にそんなに時間をさけない
  • 教員(=自分)が学生のトレーニング結果を評価できるだけの時間的体力的余裕がない(苦笑)

といった事情があり,ホントはなんとしてでも鍛えたい(身につけてもらいたい)能力なんですが,環境的構造的制約によって,いわゆるカリキュラム内では十分なトレーニングができないことが悩ましいというなんとも不毛な結論に辿り着きました.

ただ,では,日本の学生はみんなこういったトレーニングを受けられないのか,といえばそんなことはないと思っていて,例えば僕の場合,高専から大学に編入学した4年生から研究が忙しくなる博士後期課程のある時期までの間

  • 興味のある分野の英語論文を読みまくり,わからない単語や熟語を調べまくり
  • 読んだ論文の要約文を日本語で記述する
という作業を延々と繰り返すことで,英語のボキャブラリや論文で使用する表現をマスターしつつ、要約の際に日本語表現を工夫することで文章表現力や”まとめる力”が鍛えられたと思っています.当然その間,国内外の学会でも発表していたので,いわゆる口頭でのアウトプットのトレーニングもそれなりに積むことができました.

本来であれば高専や大学のカリキュラムにこういった猛烈な”質も量も伴ったトレーニング”を行うための授業・演習があればいいのでしょうが,恐らくそんな時間がいきなりできたら,学生の大部分はついていけなくなり,もし奇跡的に半分でも学生がその授業についてくると,今度は教員の側が提出される課題の添削に対応できなくなるという,”ある種コント,実際には悲劇”のような状況が生まれそうな気がします・・・

個人的に,最も身につまされながら読んだのが上の部分なのですが,それ以外の部分も興味深い(ある意味悩ましい)内容が多く,その上まだ半分弱,読んでいない部分が残っているというのは,楽しみなような不安なような感覚でいます.
ただ,このエントリの冒頭を書くために記憶を呼び起こしたら、そういえばFactfulnessをまだ読了していなかったということを図らずも思い出してしまったので,こっちも読書再開して,なんとか年内には読み終えてしまいたいところ(こっちも,面白いんですよ.忙しすぎて読み終わっていなかったことを忘れていましたが).

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