2021/12/10

質か量か,だけではない

11月の基調講演も無事,とは言い切れないものの終わり,定期試験も一段落して,ここ1週間くらいはやっと少しだけ時間の余裕ができてきました(体力的にはまだまだギリギリですが).

そうなると最近,やりたいなと思うのは運動と読書.

運動はここ半年くらいのウェイトコントロールの一環で継続しているものの,時間がないとできないウォーキングも先週今週はできました.読書については以前,読みかけと書いていたマインドフルネスの本は読了(とはいえ,実践するにはもう少し修行が必要な模様).Factfulnessは読み終えていないのですが,そんな状況で新しい本も読み始めています.タイトルは”教育論の新常識”(松岡亮二 編著)という新書で,学生の皆さんにとっては興味がないかもしれませんが,実際のところ自分達が受けている教育の現在に関する話題なので,「自分が受けたい教育ってどんなもの?」と考えながら読んでみても面白いのではないかと思います.

で,実際読んでみると面白くて,新書にしてはかなり分厚い部類なんですが,既に半分以上は読み終わっている状態.タイトルに新常識とある通り,昨今話題になっている教育格差や,まさに現在進行形である”コロナ禍での教育”についても記述があり,内容的にタイムリーな部分もたくさんあるのですが,個人的に非常に興味深かったのが”大学教育”をフォーカスした

「広く浅い」学びから脱却せよ

というセクションです.
両方で教員をした経験のある僕の個人的な感覚として,大学よりは専門(実践)よりではあるものの,高専教育も大学教育と類似した点が多いと感じていますが,学生の皆さんにとって,高専(や大学)の教育は広く浅いと思いますか?僕自身は,確かにその通り,と思っています.例えば(工業)高専の場合,中学から入学した時点でかなり専門的な内容に特化した勉強をしますので,そういった意味では”狭い・深い”ようにも思えますが,ここでの比較対象は国内ではなく海外(特にこの本の中では欧米)の大学で,特に読み書きの面において

多くの課題文献を読みこなし,そこで得られた知識をもとに,かなり長い論文(A4版で10枚前後)を毎週書くような課題のもとで,argument(根拠を示した上での自分なりの分析やその結果に基づく自分の考えの表明)を行う教育

と比較して,日本の大学(および恐らく高専)は学生にかける負荷が少ないですよね,といった記述があります.そもそも日本の高等教育機関はセクションタイトルの通り「広く浅い」教育を行って(著者の考える「日本がそういった教育をしている理由」は書籍本体を参照のこと)いて,欧米型の,上に記載したような教育を行うには様々なハードルがあると書かれています.

そもそも論として,広く浅いこと自体が日本の高等教育の問題だ,とまでは書かれていないものの,タイトルをみてもわかる通り,著者は暗にこの状況は好ましくないと考えているわけで,この点については僕も同感です.読解力および聴解力(聞いて理解する力)は学習の基盤であり,これらについては繰り返し,長時間かつ大量な”練習”を行うことでしか身に付かないと思いますし,練習の中で良いお手本をたくさんインプットすることでしか,自らが良い文章を書くスキルを身につけることができないのではないかと,僕は考えています(当然,何もしなくても理解力があり,良い文章を書ける人もいるのかもしれませんが,逆に,そういった能力が当初乏しい人であっても,訓練によって一定の,十分なレベルに到達できると思います).

広く浅い教育には広く浅い教育のメリットがあって,それにより向上する能力もあるでしょうが,それはそれとして,全ての基盤となるインプット/アウトプット能力は,圧倒的な分量のトレーニングを介さないと身に付かず,欧米ではそういったトレーニングが行われているものの日本の多くの高等教育機関ではその実現が(様々な理由で)難しい,というのがこのセクションの主な内容です.

個人的に思うところとして,インプット/アウトプット能力に関しては,質の良いトレーニングであれば量が少なくとも成果が出る,という類のものではなく,まず大前提として”量が大事”であり,”量が質を作る”と言えるのではないかと考えているものの,例えば僕の周辺の環境を見てみると,

  • カリキュラム的にそんなに時間をさけない
  • 教員(=自分)が学生のトレーニング結果を評価できるだけの時間的体力的余裕がない(苦笑)

といった事情があり,ホントはなんとしてでも鍛えたい(身につけてもらいたい)能力なんですが,環境的構造的制約によって,いわゆるカリキュラム内では十分なトレーニングができないことが悩ましいというなんとも不毛な結論に辿り着きました.

ただ,では,日本の学生はみんなこういったトレーニングを受けられないのか,といえばそんなことはないと思っていて,例えば僕の場合,高専から大学に編入学した4年生から研究が忙しくなる博士後期課程のある時期までの間

  • 興味のある分野の英語論文を読みまくり,わからない単語や熟語を調べまくり
  • 読んだ論文の要約文を日本語で記述する
という作業を延々と繰り返すことで,英語のボキャブラリや論文で使用する表現をマスターしつつ、要約の際に日本語表現を工夫することで文章表現力や”まとめる力”が鍛えられたと思っています.当然その間,国内外の学会でも発表していたので,いわゆる口頭でのアウトプットのトレーニングもそれなりに積むことができました.

本来であれば高専や大学のカリキュラムにこういった猛烈な”質も量も伴ったトレーニング”を行うための授業・演習があればいいのでしょうが,恐らくそんな時間がいきなりできたら,学生の大部分はついていけなくなり,もし奇跡的に半分でも学生がその授業についてくると,今度は教員の側が提出される課題の添削に対応できなくなるという,”ある種コント,実際には悲劇”のような状況が生まれそうな気がします・・・

個人的に,最も身につまされながら読んだのが上の部分なのですが,それ以外の部分も興味深い(ある意味悩ましい)内容が多く,その上まだ半分弱,読んでいない部分が残っているというのは,楽しみなような不安なような感覚でいます.
ただ,このエントリの冒頭を書くために記憶を呼び起こしたら、そういえばFactfulnessをまだ読了していなかったということを図らずも思い出してしまったので,こっちも読書再開して,なんとか年内には読み終えてしまいたいところ(こっちも,面白いんですよ.忙しすぎて読み終わっていなかったことを忘れていましたが).

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